月のうさぎ 1 ミルクのひきがね ---------------------------------------------------------------------------- ――何か、嫌な夢でも見ていたっけ…… デスクの上の置時計へ視線を走らせる。 深夜の二時を回ったところだった。 ふいに目覚めてしまったら、もう一度眠りにつくことは結構難しいもので。 僕はそれからしばらく目を閉じて、再びやってくるはずの睡魔を待ち望んだけれども、それはやってきてはくれなかった。 長期戦だな…… 布団にくるまり直して、羊の数を数えようとした。 そこで、妙に喉が渇いていることに気づいて、仕方なく布団から這い出す。 真冬の夜の、肌を刺すような冷気に、思わず震え上がった。 デスクの椅子にかけてあったカーディガンを羽織って、僕は自分の部屋を出た。 ドアを閉める音が響かないように、慎重に、ゆっくりと部屋のドアを閉める。 そのまましばらく、僕の部屋の向かい側にあるドアを見つめる。 僕の妹の部屋だ。 もう、とっくに寝てるだろうな… 妹の詩織の部屋からは物音ひとつ聞こえてこない。 あったかい布団の中で、何の夢も見ずにぐっすり眠っていて欲しい…… そう祈りながら、その場を離れた。 同じく、階下の寝室で眠っているだろう両親も起こすことのないように、ゆっくりと階段を下りてキッチンへ向かった。 冷蔵庫を開けると、母らしいといえばらしいのだけれど、ほとんどからっぽの状態だった。 沸かし忘れたのだろうか…いつもは常備されている麦茶のポットも入っていない。 あったのは紙パックに三分の一ほど残っている牛乳だけ。 水道水を飲んでも良かったのだけれど、僕はそのときほとんど無意識のうちに牛乳を手に取っていた。 コップには注がずに、そのまま直接紙パックに口をつけて、一気に喉へ流し込む。 甘いミルクの匂いが、口の中いっぱいに広がっていく。 苦しかった。 「……くそっ」 僕が水道水ではなく牛乳を選んだのは…紛れも無く、詩織を感じたかったからだ。 毎朝必ずホットミルクを飲んで家を出る詩織。 詩織に近づくと、ほんのりと甘いミルクの香りが漂ってくる。 その匂いが…愛しくてたまらない。 僕が自分のキモチに気づいたのは、今年の春のことだった。 そのキモチには、できることならば一生気づかずにやり過ごしたかった。 けれど……今となっては、もう遅い。 今年の春に高校へ進学した妹の詩織が、「お兄ちゃん、わたし、同じクラスの男の子に告白されたの……そいつ、悪い奴じゃないんだけど、なんかわたし、そいつのことは友達としてしか見れないっていうか……でもそいつの気持ちもありがたいって思うし。……どうしたらいいと思う?」と、僕の部屋をたずねてきたことがきっかけだった。 どうするもこうするも、詩織の勝手にすれば良いだろう、僕には関係ない。忙しいから出て行ってくれないか、と。 今まで取ったこともないそんな態度を取ってしまったことに、詩織も僕自身も驚いた。 僕は小さい頃から、この四つ年下の妹にはとことん甘かった。 僕のあとをついてまわる小さい詩織のことが、愛しくて愛しくて仕方なかった。 詩織の相談役をいつも自らかってでていたのは僕自身だ。 なのに…… その時は、違った。 詩織の口から別の男の話が飛び出した途端に、かあっと頭に血が上るのを感じた。 そんな話は聞きたくないと。 こころが悲鳴をあげた。 けれど…… 僕は、これからも一生、詩織にこの想いを打ち明けたりはしない。 良いんだ。良いんだ、それで。 それですべてが平穏に過ぎていくのだから。 それですべてがしあわせにやっていけるのだから。 握りしめたからっぽの牛乳パックを見つめながら、僕は詩織へのキモチをその中へ詰め込んで、ゴミ箱へ捨ててしまえたら良いのに……と、思った。 Copyright (C) 2008 RICO OSAKA All rights reserved. |