3 遺言


 むせ返りそうなほどきつく、香が焚きこめられている。
 しかしこの匂いにはライはとうの昔に慣れていた。
 葉巻に火を点け、それをうまそうに吸って煙を吐く主人を、ライは隣室のドアの隙間から見ていた。
 事務机で書き物をしていたが、先ほどから主人の様子が微妙に変化したことが気になって、すぐに集中力が途切れてしまうのだ。
 「ライ――」
 視線に気づいたのだろうか。
 主人……この空を浮く島々を統べる神が、ゆったりとした口調でいつものようにライを呼びつけた。
 「はい」
 ライは椅子を引いて立ち上がると、部屋を出て神の間へ向かった。
 神の前まで進み出ると、片ひざをついて胸に手をあて、頭を下げる。
 神は葉巻からくちびるをはなすと、気だるそうに煙をはきながら口を開いた。
 「面白いことになりそうだ」
 「…………?」
 「10年余り探したぞ。その探しものがみつかりそうだ」
 はっとして息を飲む。
 思わず下げていた顔を少し上げ、ライは神の表情を盗み見た。
 その不敵な笑みはいつもと変わらない。
 神はいつも笑んでいる。
 目にしわをよせ、くちびるを引き上げ、おだやかに。
 神が笑みを失った瞬間が、この888年間のうちに2度だけあったという。
 一度は、『ガナシュ島の悲劇』のとき。
 そしてもう一度は……
 「ゼロフィスを呼べ。そして至急ファルコを召集せよ」
 「はっっっ」
 神に最も近い組織、ファルコの元総指揮官だった今は亡きネス=ラウルザフが神を裏切り、彼の娘で『地空一族の末裔』であるリヒカ=ラウルザフを異次元世界へ亡命させたときだといわれている。
 ――探しもの。リヒカが見つかったというのか?
 ライは神の前を辞すると、足早に神の間を後にした。
 もし事実であれば、これはライに対しても大きなチャンスがやってきたということになる。
 くちびるの端を引き上げてほくそ笑むと、ライは懐の小箱から蝶を飛ばした。
 本物ではない。紙でできた蝶だが、なかなか精巧なもので少しの魔力でまるで本物のようにうつくしく飛ぶ。
 至急のときは黄色の蝶を飛ばす。蝶が到着してから1時間以内に、ファルコのメンバーは暁の間へ集合することになっている。
 ゼロフィスの分は飛ばさずに、自ら報告の足を向ける。
 他のメンバーには召集後、会が開かれてから初めて真実を報告されることになっているが、総指揮官のゼロフィスには直ちにすべてを報告しなければならないのだ。
 大いに気が進まないが、神の仰せだから仕方が無い。
 ゼロフィスのいる離宮へ足を向けたライは、しかしすぐに歩みを止めた。
 向こうの方から涼しげな顔で颯爽と歩いてくる黒髪の男の姿が見える。
 「…………お前の蝶は飛ばしていないが?」
 何も言わず、目もくれず。ただ通り過ぎようとするゼロフィスに、ライが静かに言った。
 しかしゼロフィスは尚もライを見ることなく、真っ直ぐ前だけを見据えて眉ひとつ動かさずに返事をした。
 「ああ。オランジュ島の方角に飛んで行った黄蝶を見た。神に直接、話を一通りきいておきたい。先に行く」
 簡潔にそれだけ述べると、ゼロフィスは暁の間ではなく、まだそこに御座すだろう主人の、神の間を目指して歩き出した。
 「…………相変わらず気に食わない総指揮官様だな」
 ライは舌打ちをすると、少し距離を取って自分は暁の間へ向かった。


 * * *


 「はーい、はい!ヒーちゃん落ち着いて、どーどー!どーどっっっうが!!」
 身体を床に強く叩きつけられ、ヴェルは声にならない声を出した。
 咳き込みながら胸元を直そうとする間もなく、ヒカリが馬乗りになってヴェルの両肩を鷲掴む。
 「ヒーちゃん言うなーー気持ち悪いわこのド変態!!」
 「だ、だめじゃないかヒーちゃん、年頃の女の子がそんなあられもない格好しちゃあ!あ、ほら、今ちょっと見えちゃったじゃないか、白いレースの……うぐうーーー!!!」
 ヒカリは右手でヴェルの口を押さえつけると、そのまま一気に彼の頭部を床に叩きつけた。
 ゴンっと鈍い音をたてると共に、ヴェルは意識を手放した。

 「だって、ヴェルがいきなり変なこと言うから悪い」
 「ヒカリが何からすればいい?ってきいてくれたから、使命その1を言っただけじゃないかー」
 「だからって……何であたしが、あの、その…………」
 「ゼロフィスにご奉仕」
 「うんそう、そのゼロフィスっていう男子にごほう…………」
 再びの噴火を恐れ、ヴェルは急いで大釜の向こう側へ回避する。
 もうずいぶんうまく逃げられるようになったもんだ。
 何とか荒ぶるきもちを押さえ、ヒカリは自分の手元の水晶玉に視線を落とした。
 さっき、ヴェルがうず高く積み上げられた本のタワーの奥にある隠し戸棚から持ち出してきて、ヒカリに握らせたものだ。
 「…………聞いてみなよ」
 いつの間にかヴェルがヒカリの傍に帰ってきて、そう優しくうながした。
 この水晶玉に、ヒカリの本当の父・ネス=ラウルザフの遺言が吹き込められているらしい。
 さっきから、早く聞いてみたいというきもちはある。
 けれど……いざとなると、すくんでしまう自分がいる。
 知りたかったはずなのに。本当の父の姿。声。その、存在。
 「時間が無かったから、とても短いことばだけれど。それでも、ネスがヒカリに遺したものなんだ。この遺言と、それから――」
 ヴェルはヒカリの前下がりに揺れるサイドの髪を耳にかけ、そこに露になった耳たぶにそっと触れた。
 そこにはヒカリが何度となくはずそうと試みてきた、涙型の深青のピアスがある。
 「この、魔法のピアスとね。この原型をつくったのは、何を隠そうぼくだから」
 そう言って屈託なく微笑むヴェルを、ヒカリはやっぱり心の底から憎いとは思えない。
 たとえ自分をこの世界へ呼び寄せる為に、色々怖い思いをさせたり、ド変態だったりしても。
 自分の本当の父と、親友だったというヴェル――
 何だかわかる気がするのだ。父が、ヴェルと友達だったのが。ヴェルに、心を全開にしていたであろうことが。妙に納得できてしまう。
 ヒカリはひとつ大きく深呼吸をすると、その場に正座して姿勢を正した。
 背中を伸ばして、膝の上に水晶玉を置くと、その表面に右手の平をゆっくりのせた。

 『――ヒカリ、はじめまして。そしてようこそ空島へ。わたしが君の父親の、ネス=ラウルザフです』
 
 とても明るいほのぼのとした声音に、ヒカリは一瞬にして安堵感に包まれた。
 目を閉じる。まぶたの裏に、声から想像する父の像を描きながら、ヒカリは遺言の続きを聞いた。
 
 『ヴェルから既に色々話を聞いたかもしれないけれども、ヒカリがこのことばを聞いているということは、今わたしはもうこの世にはいないということで、非常に残念極まりない。君がどんな立派なレディに成長しているのか、わたしはもうこの目で確かめることができないのだから。かわりに、親友のヴェルにしっかり世話を焼くように頼んであるから、この世界でもどうか安心して過ごして欲しい』

 
 * * *


 「とても今から最終決戦に挑む奴の出す声じゃないね、それ」
 ヴェルに言われ、ネスはゆるんでいた頬を一瞬だけひきしめた。
 「当たり前だ。未来の自分の娘に聞かせるんだから。それに、いきなりこの世界へ召還されたあげく、その命を実は神に狙われているのだと知ったら、怖がるに決まっているから」
 「…………本当に、行くのか?ネス」
 ネスはヴェルに微笑むと、直接その問いには答えずに、水晶玉にまた右手の平をのせた。
 そして、遺言の吹き込みを続行する。

 『わたしはこれから、この世界を救いに行く。神が忌み嫌い、この島のオランジュ島というところに強制隔離している地空一族を解放するために、神と話をつける。話がつかなかった場合は……強行手段に出るつもりだ。そこで、わたしからヒカリに、ひとつだけ、頼みがある』

 少し、言いよどむ。
 自分の娘にこのようなことを託すべきではない。
 本当ならば、自分ですべてを全うしたいのだ。
 無論、そのつもりでいる。
 しかし…………神は1000年の命を持つ。
 すでに800年以上生きていると言っても、あと、100余年は優にある。
 その命を途中で絶つことができるのは――
 神の意志のみなのだ。

 『もし――もしもわたしが志半ばで逝かなければならなくなったときは…………ヒカリに、自分の遺志を継いでもらいたいと願っている』

 水晶玉にのせた手に、力がこもる。

 『ヒカリが怖いと思うのなら、やめておけばいい。わたしも、できればヒカリを危険なめにあわせたくはないから。しかし――もし少しでもやってみようと思うきもちがあるのなら、ゼロに会ってみて欲しい。ゼロと……ゼロフィスと二人なら、力を合わせられると思う。ゼロはわたしが最も期待している少年だ。きっと、ヒカリが空島へ来る頃には彼も立派に成長しているだろう』

 「――もう、いいのか?」
 ネスはヴェルの掌に水晶玉をのせると、こくりと頷いた。
 そしてその水晶玉から手をはなす前に、虚ろな瞳で、ひとことだけつぶやいた。
 それはヴェルが今まで彼の親友をやってきて一度もきいたことのない声音だった。

 『あいしてる、ヒカリ』


 ヴェルがネスとアリアの訃報を影猫から聞いたのは、夜明けのことだった。





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