4 出逢うふたり


 父の声は、おだやかで、あまくて、どこまでもやさしかった。
 自分はともて愛されていたことが、わかる。
 ヒカリは無意識のうちに耳たぶに揺れる青いピアスに触れていた。
 どうしてはずれないんだろう。
 いじめの原因のひとつになっていたそのピアスを、とてもとても憎いと思っていた。
 耳ごと取ってしまいたいと、本気で思ったこともある。
 けれど、いじめに落ち込んだり、くじけたりしそうになったとき、なぜかこの憎いピアスに触れていた。
 憎たらしいのに、その憎い存在に触れているだけで、信じられないくらい心が穏やかになる事実があったからだ。
 そして、いつだって思った。
 
 あたしは負けない――


 ヴェルが短く口笛を吹いた。
 すると、山積み本タワーの狭い間をぬって、黒いいきものがすばやくこちらへ向かってくるのが見えた。
 ヴェルの前にやってくると、みゅーと猫のような鳴き声をあげて彼の足に擦り寄る。
 「ドリーに伝えて。今すぐ会いたいって」
 猫っぽいいきものはみゅーと返事をすると、さっきよりもすばやい速さで走り去った。
 その方向を見つめていて、ヒカリはあることに気付く。
 山積み本タワーで視界がほぼ遮られていて見え辛いのだけど、よくよく見ると、太い鉄格子のようなものが見える。
 「ねえ……ここって、どんな部屋なの?」
 不気味な研究室のようだと思っていたが、もっとヤバイ感じがしてきてヒカリはきかずにいられなかった。
 「え?どこって。ここはぼくの牢屋だよ」
 「ろっっ牢屋?!!」
 ぼくの部屋だよ、みたいな言い方しないでよ!いったいどんな罪を……
 「まあ、牢屋兼、研究所って感じだけどねえ。神が、ぼくをここに幽閉してるんだけど。同時に、高等魔術の研究もさせられてるんだ。さっきの黒いいきものも、ぼくが作った<影猫>っていうんだよ」
 「神が幽閉って……じゃあ、もしかしてヴェルもその、あたしと同じ地空一族ってやつなの?」
 ヴェルは瓶底メガネをはずすと、小さく笑った。
 「ぼくは生粋の空の民だよ。そして、ヒカリの父親のネスも。ただ……」
 言いよどんだヴェルを、ヒカリは真っ直ぐ見つめていた。
 「ヒカリの母親のアリアは、オランジュ島に強制隔離されていた地空一族だった」
 ――だった、ということは、ヒカリの本当の母もやはりもうこの世にはいないということだ。
 薄々感じてはいたけれど、今、確実なものになってしまい、ヒカリは大きく深呼吸した。
 
 ――父と母は、その島で出逢った。
 いわゆる、縛り付けるものと、縛り付けられるものの関係だったふたりはきっと、出逢ってはいけなかったのかもしれない。
 それでも、ふたりは、静かに愛を結んで。
 あたしが生まれて。
 ふたりは、あたしを守るために、命を落とした。
 父は……父さんは、あたしと母さんの、両方を守りたかったんだ。
 母さんの一族ごと、救いたかったんだ………

 「ヴェルも、父さんと一緒に戦ったの?」
 「……途中まではね」
 ヒカリは複雑なきもちになる。
 きっと、父さんに加担したからヴェルはこんな所に閉じ込められているのだろう。
 ヴェルも、自分を守ってくれた人なのだ。
 「あたし……やるよ」
 「ん?」
 ヒカリはヴェルに歩み寄ると、彼をぐいっと見上げた。
 さっきはヴェルの喧嘩を買うかたちだった。
 でも、今は違う。
 さっきとは違う、決意。
 「その――ゼロフィスに、会ってみる。会って、すぐに力を貸して貰えないか、話してみる」
 「それは無理なんだよ」
 ヴェルの即否定に、ヒカリは虚を衝かれた。
 「ゼロフィスは今、神に最も近いファルコという組織で、総指揮官をしているんだ。ネスがその昔にしていた仕事を、今はゼロフィスがしている。いきなり地空一族の解放なんか要求したら、間違いなく瞬殺される。だから、まずはゼロフィスに近づくことが重要だ。色仕掛けは……あまりすすめたくないけれど。何とか彼の心を掴んで。ゼロフィスの懐に飛び込むんだ!」
 「と、飛び込むんだって言われたって……でも、ゼロフィスって人は、あたしの父さんが一目置いてる人なんでしょ?ってことは、何も言わなくたっていいくらいに、父さんの遺志も伝わってるんじゃ……」

 「ゼロは変わったわよ」

 突然、鉄格子の向こう側から色っぽい女の人の声がして、ヒカリとヴェルは振り返った。
 「ドリー!早かったんだね」
 ヴェルの端整なその顔立ちが、ふにゃりと情けなく崩れていく。
 この人がドリー……胸が大きく開いた襟ぐりから落っこちそうになっている。
 どうしらたそんなにたわわに成長するんだろう?
 ヒカリは自分が指を加えてドリーの胸を凝視していることには全く気付いていなかったが、ふと我に返った。
 あれ?でも、ヴェル……あっっ!
 「ヴェル、メガネ……」
 ヒカリがフォローするよりも早く、例のドリーとやらがつかつかとヴェルに歩み寄ると、ばちこーん!と彼のほっぺを平手打ちした。
 白い頬がみるみる真っ赤に腫れ上がる。
 「何で、メガネ……はずしてんのよ?」
 「あ……あのーこれはそのーあのー」
 ばちこーんと、今度は反対側のほっぺに平手打ちが入る。
 ヒカリは止めに入ろうとしたが、しかし、その赤く染まっていく頬を手で押さえながらもヴェルが若干微笑んでいることに気付き、絶対止めるもんか……と心に誓った。


 * * *


 「あんた……ヒカリ、だっけ?」
 少し前を歩いていたドリーが、そのまま歩きつつヒカリを振り返ってたずねてきた。
 ドリーの形の良すぎるお尻をこれまた凝視していたヒカリは、慌てて口にくわえていた指をはずした。
 「あ、はい。芦屋ヒカリです。どうぞよろしくお願いします」
 ヴェルの話によると、どうやらこのドリーというグラマラス極まりない女性は、ヒカリの諸事情はすべて知っている、ファルコの一員だそうだ。
 ファルコは本来神の組織だけれど、ドリーはワケあって密かにヴェルに付いているそうで。
 イコールあたしの味方であるらしく、ヴェルと共に世話を焼いてくれることになっているらしい。
 「ゼロ、なかなか落ちないわよ。手強いから頑張りな」
 ドリーはそれだけ言うと、腰まである長い金髪を大きく揺らして前を向いた。
 ヒカリはヴェルと一旦別れ、ドリーに連れられてゼロフィスの元へ向かっているところだった。
 と言っても、神からファルコに召集がかかっているらしく、その間は部屋の外でドリーを待つことになっている。
 暁の間という部屋の少し前にある大きな柱の影で、ドリーは「ここで待ってて」とヒカリを残し、去っていった。


 ヒカリは柱にもたれて三角座りをしつつ、ドリーの言葉を気にしていた。

 『ゼロ、なかなか落ちないわよ』

 ドリーはゼロフィスを好きだったことがあるのだろうか。
 そしてアタックしたことがあるってこと?
 ドリーに落ちない男の人がいるだなんて、ヒカリには信じられなかった。
 たわわな胸、きゅるっと締まった腰、形の良すぎるお尻……
 どれもこれも、ヒカリが追い求めるものばかりだ。
 いったいどんな男なのよ――
 
 「お前、ここで何をしている」

 ヒカリは顔を上げた。
 柱の陰がちょうど重なって、自分の前に立っている人物の顔はよく見えなかった。
 けれど、それが男であることくらいは、わかる。
 「あ……あの、ドリーを待ってるんです。待つように、言われてます」
 ヒカリは言いながら立ち上がり、息を飲んだ。

 ――予感が、した。

 「ドリーが……?ドリーの友人か何かか」
 黒い髪はふわふわとあっちへこっちへ自由に遊んでいる。
 顎のラインはとても細くて綺麗で、たずねてくるくちびるはやや薄い。
 意志の強そうな切れ長の目は真っ直ぐにヒカリを見据え、ヒカリは金縛りにあったかのように動くことができなかった。
 返答に迷っていると、男はすっと距離をつめ、ヒカリの顎に手をかけた。
 向かされたその先には、どアップの男の顔がある。
 な、何っっっ?!!――
 こんなに至近距離にカイ斗以外の男の顔があるなんて、今まで経験したことがない。
 恥かしさが込み上げてきて、今すぐここから逃げ出したい気持ちに駆られる。
 なのに、ヒカリは男の瞳から目を逸らすことができなかった。
 なんとか男のマントの留め金に視線をずらす。
 そこには、ヴェルから教えられている、ファルコの総指揮官の紋章があった。

 ――コイツだ。
 コイツがゼロフィス。通称『ゼロ』

 ゼロフィスは、今、あたしの目の前にいる。
 「お前…………」
 ゼロフィスの言葉を、ヒカリは急いでかき消した。



 「あたしはヒカリ。本日付で、あなたの小間使いに任命されました!」 






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