8 この美しい世界に


 軽やかな小鳥のさえずりが聞こえる。
 さっきからほっぺが何だかくすぐったい。
 誰かに舐められてるみたいな……
 まさかいくらなんでもカイ斗じゃないよね、もういい歳なんだからさ。
 昔はよくほっぺとかまぶたとか舐められたな。
 芦屋家番犬のダンゴと一緒に。
 舐めるというよりは噛まれる、に近かったけど。
 ね、カイ斗。ダンゴ。

 ――ん?!!

 ヒカリは勢いよく飛び起きた。
 と共に、ごんっと額に激痛が走る。
 「ヒンッッ!!」
 「……ったーい!」
 額を押さえつつ薄目を明けて前方を確認すると、昨夜すっかりヒカリになついてしまった羽馬のラズが、干草の上でのたうちまわっていた。
 「あ、ご、ごめんラズ!」
 ヒカリは慌てて駆け寄り、ラズの額にそっと触れた。
 「ラズが舐めてたの?あたしのほっぺ」
 ラズはつぶらな瞳を潤ませながら、小さくブルルっと頷いた。
 ヒカリの手の平が心地良いのか、必要以上に額をすりつけてくるラズを、ヒカリは可愛いな……と思う。
 「あたしのこと、起こそうと思ったんだね。もうすっかり朝だね」
 番犬のダンゴを思い出してしまう。
 番犬にならない程おっとりした性格のダンゴは、ヒカリにお腹を見せるのが大好きだ。
 そして、そのお腹を撫でられるのも。
 ……そうだ。ここは、人間界じゃなかったんだった。
 だから、カイ斗もダンゴも、いるはずがない。

 あたし、人間界に……戻れるのかなあ?

 ふと浮かんだ疑問。
 だけどそれはよく考えてみると、とても切実なものだ。
 と、その疑問を跳ね飛ばすかのように、ラズがヒカリのお腹に軽く突進してきた。
 「きゃっっ!」
 突然のことに驚くが、ヒカリのからだは少しだけ宙を泳ぐと、うまくラズの背中に着地した。
 ラズはそれを確認すると、自分で上手く小屋の扉を開け、外へ飛び出した。
 
 「え………うわあー!」

 昨夜この小屋に到着した時は陽が落ちていて、あたりは真っ暗だった。
 だからよく分からなかったのだけれど……
 飛び出したそこには、ヒカリがかつてファンタジーの絵本や映画の中でしか見たことのないような世界が広がっていた。
 しかも自分は今、宙を飛んでいる。
 ラズの背に乗って。
 怖くなどはまったく無かった。
 「すご……い、本の中にいるみたい」
 雲が、あまりにも近くてビックリする。
 その雲すれすれまで駆け登っていくラズの背から、ヒカリは今まで自分がいた場所を見下ろした。
 ラズの小屋は瞬く間に遠ざかって小さくなっていき、すぐ右隣りには立派なゼロフィスの宮殿があったことを知る。
 あんなに大きな家で、ひとりで住んでるなんて……寂しくないのだろうか。
 そのゼロフィスの離宮の上方に、ひと際大きく目立つように城のような建物がそびえ立っているのが見えた。
 あの城の地下牢に、昨日ヒカリを召還したヴェルは幽閉されている。
 そして……
 ――あの城に、神がいるんだ。
 ヒカリはごくりと喉を鳴らした。
 まだ見ぬ、自分の命を狙う者。
 そして、自分の両親の命を、奪った者。

 「ブルルルッッッ」
 いつの間にかラズにつかまる腕に力がこもりすぎていたようで、苦しそうな声が漏れきこえてきた。
 「あ、ごめんごめん。ごめんね、ラズ」
 腕の力を緩めつつ、またこぼれそうになるものを隠すかのように、ヒカリはラズの身体に顔をうずめた。
 泣くな、ヒカリ。泣くな。
 
 木々は、緑萌え豊かに生い茂っている。
 草花も人間界では見ないような姿形の変わったものが揺れているが、美しくていつまでも見ていたくなる。
 流れる小川の水は限りなく透明で、底に転がる石たちがこの目で確認できてしまうほどだった。
 そして、身を乗り出して遥か下へと視線をめぐらせると……
 そこには、青い海に浮かぶ陸地が広がっていた。

 この世界は、海に浮かぶ陸と、空に浮かぶ島とで成り立っているのだった。
 半信半疑で聞いていたヴェルのことばは、事実だったのだ。

 ――きれい。
 こんな世界、ほんとにあるんだ。
 
 高層ビルなどひとつも無い。
 煙を上げて走り行く車も。
 自然が誇り高く息づく、限りなく美しいこの世界。

 しかしこの美しい世界には、一瞬で、その美しさを黒く染め上げてしまう存在がある。

 神。


 顔を上げて周囲をぐるりと見回してみる。
 自分のいた場所はひとつの島になっており、その島を囲むようにして、周りに4つの島が存在していた。
 それぞれ形は違う。
 が、その中に物々しい重厚な黒い建物が建てられている島があった。
 ……あれが、オランジュ島?
 父であるネスが、遺言の中で言っていた。
 自分と同じ血が流れる一族が、強制隔離されている島。
 ヒカリの母も、そこにいた。
 強制隔離ということばは、ヒカリにとても重く苦しい印象を与えている。
 母はそこでどんな目に遭い、どんな毎日を送っていたのだろう。
 そんな中で出逢った父ネスは、母にとってきっと、『光』であったに違いない……
 「ラズ、あたし明日にはあの島へ行くんだよ。でもまた、すぐに戻ってくるから。誰かさんの注文の、『女を超えて』」
 正直、女を超えるということがどういうことなのか、ヒカリはイマイチよく分かっていなかった。
 女らしさを捨てろってこと?
 女を感じさせるなってこと?
 でも、それはヒカリがいつも追い求めていることとはまるで正反対のことだった。
 
 ピューーーーウ

 どこかで、高い口笛のような音がきこえた。
 気のせいかとヒカリは思ったが、ラズが途端に凄い勢いで急降下し始めた。
 どうやらご主人様に呼び戻されたようだ。


 * * *


 「まったくお前は!好き勝手に行動する小間使いがどこにいるんだ!」
 「……ここにいますが、何か?」
 まったく詫びる様子もなく、ヒカリが腰に両手をあててふんぞり返った。
 「だって、ラズが乗せてくれたんだもん!ちょっとくらいいいじゃない、朝のお散歩させてくれても……あっ」
 敬語を捨ててしまっていることにようやく気づいたらしく、両手で口を塞ぐヒカリをゼロフィスはあきれ顔で見た。
 「もう敬語はいい。なってない敬語を使われるとむしゃくしゃするからな」
 「ぬわっ、なんですかそれー!」
 噛み付いてくるヒカリを片手で押しやっていると、ふとヒカリの髪に目が止まった。
 ラズの小屋の干草がささっている。
 ゼロフィスは距離を詰めてヒカリの髪に手を伸ばした。
 と、ヒカリの身体がびくんっと小さく跳ねる。
 「干草だ。とってやるからじっとしていろ」
 ヒカリが自分に対して身じろぎしたことが気に食わなくて、ゼロフィスは干草をとった後もしばらくそのままヒカリの髪をいじり続けた。
 「ちょ、もうとれたでしょ?離れてください……よ」
 「なぜだ」
 いつもゼロフィスに近づこうとする女たちは皆、向こうからからだをすりよせてくる。
 触れて欲しいと、願ってくるのだ。
 しかし、その豊満なからだにもゼロフィスはまったく魅力を感じなかった。
 その胸も。腰のくびれも。バランスのとれた尻や太ももにも。紅くてやわらかいくちびるも。

 ――女はいらない。

 ネス教官ですら、女に溺れたせいであんなことになってしまった。
 アリアとさえ出逢わなければ……
 まだ――

 ゼロフィスは思いを断ち切るかのように目を閉じ、ヒカリから離れた。
 「敬語はもう使うな、気持ち悪い。それから、まず風呂に入れ」
 ついてこい。
 そう言ってゼロフィスは先を歩き出した。
 自分の住処にドリー以外の女を上げるのは、初めてのことだ。
 しかしもう、二度とはないだろう。
 「風呂のあと、用を言いつける。だからもう外には出るな、ここでじっとしていろ」

 なぜか、ヒカリを外に出していてはいけないような気がした。
 自分のものにしたくなったとか、そういう気持ちではない。
 明日にはバグズのいるオランジュ島へ行かせるのだから。
 自分の手を離れるものに、執着などはしない。
 しかし、今はまだ自分の手元に居る。
 不本意ながら、ヒカリは、ドリーからの預かりものだ。
 無理矢理だったとはいえ、一旦手をつけてしまっている。

 ゼロフィスはぶつぶつ言いながら後をついてくるヒカリをそっと振り返った。
 彼女に気づかれない角度から、ヒカリを見つめる。
 尖らせたくちびる。
 伏せた目から長く伸びるまつげ。
 そのまつげの隙間からのぞく、エメラルド色の瞳。

 ――守りたいのか?俺が……こいつを?

 そんなわけがない。
 あるはずがないのだ。
 ゼロフィスはくちびるを噛みしめると、ヒカリから視線を逸らした。







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