9 小夜にふるえるきみの声


 「きょーかん!ネス教官!」
 「その声はゼロか?どうしたそんなに慌てて……って、お前、ずぶ濡れじゃないかっ!」
 玄関の扉を開けたネスは、軒下に立つゼロフィスの姿に目をまるくした。
 夕方から降りだした雨は、夜になって激しさを増していた。
 時折、ピカピカ光る雷が、黒い雲の間を駆け巡っている。
 ゼロフィスは髪や衣服がずぶ濡れになるのも構わずに、自分の寄宿舎からネスの家まで走ってきたのだった。
 その距離は大人なら何てことのないものだが、5つの子が走って来るには少し息切れしてしまうくらいのものである。
 しかし、ゼロフィスにとってそんなことはこれっぽっちも問題ではなかった。
 元々は自分もそこで暮らしていたし、離れてくらすようになった今も頻繁に行き来している慣れた道だ。
 それに、たとえ息切れしたって、どうしても早くネスに見せたいものがあったのだ。
 「さあ中に入りなさい」
 ネスがゼロフィスの濡れそぼった背中を優しく押して、玄関の扉を閉めた。
 入ってすぐの所にはこじんまりした暖炉があり、そこで小さな火が燻っている。
 もう休もうとしていたのだろうか……
 ゼロフィスは何か悪い事をしてしまったような気持ちになり、途端にさっきまでの勢いを失くしてしまった。
 玄関先で呆然と立ち尽くしていると、奥の部屋に消えたネスが、ふかふかの毛布と雨粒を吸い取る為の厚手のタオルを持って、大股歩きで戻ってきた。
 「おいで、ゼロ」
 うながされるままに、ゼロフィスは自分に向かって広げられたネスの腕の中へ身を寄せた。
 ネスはずぶ濡れのゼロフィスの小さな身体をタオルでわしわし拭き、大体の水気を吸い取ると、急いで毛布を広げる。
 毛布にくるまれたゼロフィスは、溶けてしまいそうになるくらいの安堵感に包まれた。
 それまで必死になっていて気づかなかった張り詰めた気持ちが、するするほどけていく。
 真っ黒な雲。轟音を響かせながら激しく光る雷。
 ……怖かったのかもしれない。
 しかしまだ幼い少年は、それ以上に怖ろしいものを知っている。
 不変のものだと思っていた日常は、今日と同じような夜に、崩れ去った。
 幼すぎてはっきりとは覚えていない。
 ただ、明るく差し込む陽の光が、突然闇に包まれたことだけは鮮明に覚えている……
 ゼロフィスはゆっくりと、毛布の中に顔をうずめた。


 キラキラボシを作る呪文をネスから教わったのは、おとといの授業だった。
 ゼロフィスは、若干5歳にして学内で飛びぬけた才能を発揮していて、特にネスの受け持っている授業ではダントツトップだ。
 小さいゼロフィスにとって、ネスの魔法の授業は楽しくて大好きでたまらないものだった。
 昨今に続く地上の民との争いを鎮圧する為に神が創設した空島の組織、『ファルコ』の総指揮官を務めながら、未来のファルコを担う優秀な人材を育てるための学校で教鞭もとっているネス。
 そんな彼は、常から生徒たちの注目の的だった。
 ゼロフィスはいつも、ネスの視線をひとりじめしたくて、日夜予習復習を欠かさなかった。
 誰よりも早く、一番にネスから合格を貰いたかったのだ。
 他の生徒たちが苦手だと投げ出しがちな剣術の稽古も、ゼロフィスは、より果敢に挑んでいった。
 本来6歳からでないと育成学校には通えないのだが、ネスの推薦により、ゼロフィスは特別に寄宿舎も用意されて5歳で入学する手続きをとることができた。
 そうやって自分の面倒を見てくれるネスに、何か少しでも、返せることを探していた。

 
 「あったかいもの飲むか?」
 まだ少し震えているゼロフィスの身体を、後ろから抱え込むようにして暖炉の側に座っていたネスは、立ち上がりながら毛布のかたまりを覗き込んだ。
 鼻水をすすりながら、首を振るゼロフィスの顔だけが、そのかたまりからひょっこり出ている。
 「宿舎ではちゃんとごはん、食べてるのか?あまり背が伸びないな……身体の線も細いぞ」
 痛いところを指摘され、ゼロフィスは俯いた。
 食事を摂る事があまり好きではなく、つい最近まで一緒に暮らしていたネスもそのことはよく知っているのだ。
 「そんなんじゃ、つよくなれないぞ」
 「………え?」
 「ごはんは生命の源なんだ。生きるこの身体をつくる為に、わたしたちはごはんを美味しく、ありがたく頂くんだ」
 「いきる……この、からだ……」
 「そう。ゼロも生きてるだろう?ここにちゃんと、身体があるだろう。この小さな身体は、これからどんどん大きく、つよくたくましくなっていくんだ」
 「ぼく、つよくなれる?ネス教官みたいに、なれるの?」
 ネスは少し答えるまでに間を置いたが、苦笑しつつ頷いた。
 「なれるとも。わたしよりもつよく、つよくなるだろう」
 ゼロフィスはにんまり笑った。
 「ねえ、ネス教官、これ見て欲しいんだ……」
 そう言うと毛布から這い出し、小さな両手の平を胸の前でぴったり合わせ、おととい教わったばかりの呪文を唱えた。
 しばらくすると、その合わさった部分から眩い光の粒が次々と生まれていく。
 ゼロフィスは光の粒の量と輝き具合を見て、一気に両手の平を上へ突き上げた。
 ひゅんっ!と、ゼロフィスの指先から眩い光の固まりが飛び出し、徐々に散らばりながらキラキラと輝きを増して、そして次第に消えていった。
 ネスはすべてのキラキラボシが消えるのを見届けてから、ゼロの半乾きの髪をくしゃっと撫でた。
 「完璧だな。またゼロが一番のりだ」


 そのネスの優しい笑顔が、ゆらゆらと揺れ始める。
 まるで、水面に映ったもののように。
 今にも消えて、無くなってしまいそうだ。
 ゼロフィスは慌ててネスに手をのばした。
 しかし、その手はどうしても届かない。
 
 「やだ、行かないで……ネス教官!」

 『ゼロ、つよくなれ、ゼロ、つよく』

 「ネス教官……きょうか……と、とうさ……ん、父さん、父さんっっっ!!!」


 と う さ   ん ―――



 すうっと、目が覚める。
 出窓から空を見上げた。
 雨は降っておらず、雷も鳴っていない。
 ……めずらしく長い夢を見た。
 ゼロフィスは額に手をあて、深呼吸した。
 ネスの夢の最後には、いつも彼はどこかへ消えてしまう。
 そして、彼を追うように精一杯のばしたゼロフィスの両手は、虚しく宙を泳ぐだけだった。

 ゼロフィスはいつも、熟睡はしない。
 いつ何があってもすぐに飛び出せるように横にはならず、ベッドの上で背を壁に預けて剣を脇の小机に置き、座ったまま眠りについていた。
 ふと、自分の足に何かが当たり、ゼロフィスは小さく驚く。
 むにゃむにゃとわけのわからない寝言を言いながら寝返りをうつヒカリが、そこにいた。
 
 昨日の明け方から身辺に感じる違和感。
 それは、自分ではなくヒカリに向けて発せられているもののように感じ、ゼロフィスは自分の中の禁忌を破り、住処へヒカリを上げてしまった。
 そして昨日は念のため、一歩も家から外へは出さなかった。
 その違和感の正体が何なのかつかめるまでは、用心に越したことはない。
 別に昨日出逢ったばかりの少女にそこまでしてやる必要など更々ないのだが、ドリーの縁者と言われると、そばにいる間は嫌でも面倒を見るしかない。
 それだけの借りが、ドリーにはあった。
 「うっとうしい奴だ」
 ゼロフィスはヒカリを足で跳ね除けようとした。
 寝室だけは別に用意してやったのに、ヒカリはゼロフィスの部屋に置いてある本に夢中になり、読んだら自分の部屋に戻るからーとか言っておきながら案の定、本を抱えたままこっくりこっくり舟をこぎ始めた。
 しかも、寝ぼけ眼をこすりつつむくっと起き上がったかと思ったら、ぴしっと敬礼をしてゼロフィスのベッドに勝手に這い上がり、おやすみなさいーと三つ指ついて挨拶をしたのち布団に突っ伏したのだった。
 後で追い返そうとしてそのまま放置していたことを忘れていた。
 ちっと舌打ちをして、部屋を移動させるべく、ゼロフィスはヒカリの身体を抱き上げようと膝の裏と首の後ろに腕を差し入れた。
 が。接近したそのヒカリの耳元で妖しく光るものに目がつき、ゼロフィスは力を緩めた。
 昼間には気にならないその物体をよく確かめたくなり、ヒカリの頬にかかっているサイドの髪をかきあげ、耳にかける。
 そこに現れたのは、小さな雫の形をした、どこまでも深い青のピアス。
 その青色は、昼間と夜とでは違うような気がした。
 まるで、とてつもなく強大な魔力が宿っているかのような……今はとても、不気味な色なのだ。
 そのピアスはヒカリの耳たぶに少しの隙間もなく密着している状態で、まるで身体の一部になっているかのようだった。
 ゼロフィスはその青いピアスを、瞬きすることなく、見つめた。
 
 自分はこれを、知っているような気がする……
 この青を、いつか見た。
 しかし、思い出せない。
 不思議なくらい、それがいつどこでだったかが思い出せないのだ。
 まるで、そこだけ記憶が切り取られたみたいに。

 「ヒカリ……お前は一体………」

 俺は知っているのか?
 お前のことを……

 胸の鼓動が速くなっていく。
 ゼロフィスは、無意識のうちにヒカリのくちびるに自分のひとさし指を当てていた。
 微かな温もりが伝わってくる。
 冷め切った、細い指に。
 変な感覚が押し寄せる。
 ……もっと触れたい。
 ヒカリのくちびるをこじあけたひとさし指は、ヒカリの歯にあたった。
 その歯もこじあけて、口の中へ指を入れる。
 ヒカリが苦しそうに顔をゆがめた。
 しかしゼロフィスは気にすることなく、そのまま指を侵入させつづけた。
 その時だった。

 「んー、カイ斗やめ……て………」

 ゼロフィスは動きを止めた。
 ヒカリの口からもれ出た寝言には……誰かの名前が混じっている。
 男の名だろうか。
 ヒカリのくちびるから、指を引き抜く。
 そうやって寝言に出てくる程の仲でありながら、なぜこんな所へ一人でやってきたのか。
 その男までもを、失っているのだろうか。


 ゼロフィスは再び眠りにつくことなく、ずっと、ヒカリの寝顔を見ていた。
 静かに、密やかに。
 ヒカリの寝息に耳を澄ませる。

 夜が明ければ、ヒカリはオランジュ島へ出発する。

 そしてもう二度と……
 会うことはないだろう。






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